多摩川散歩

東京都と神奈川県の境を悠然と流れる多摩川。多摩川の魅力をたっぷり紹介します。

六郷用水(次大夫堀)の散策情報
(徳川家康の治世を偲ぶ水辺の散策路)

六郷用水(次大夫堀)は徳川家康が作らせた農業用かんがい用水です。時代は変わって、いまでは市民の憩いの場所として、また散策やジョギングなどの生活インフラとして、その存在はますます重要性を増してきています。六郷用水(次太夫堀)の散策情報をお伝えします。

いまも市民の憩いの場所として人気が高い六郷用水(次大夫堀)/多摩川の用水:六郷用水(次太夫堀)~魅力いっぱい 多摩川散策情報
六郷用水(次大夫堀)に沿った散策路。いまも市民の憩いの場所として大切に利用されています。

六郷用水(次大夫堀)は、徳川家康の命により、多摩川左岸の六郷領(いまの東京都大田区)を潤す農業用かんがい用水路として開削された、歴史的価値が高い由緒ある用水です。

時代が変わって、いまでは用水路としての役目はほとんどなくなりましたが、反面、市民の憩いの場所として、また散策やウォーキング、ジョギングなどの生活インフラとして、その存在はますます重要性を増してきています。

ここでは、そんな魅力いっぱいの六郷用水(次大夫堀)の素顔を、5つのページに分けて紹介します。
 ◇六郷用水(次大夫堀)とは~総合解説 ※このページです。
 ◇六郷用水の上流域
 ◇丸子川~仙川から調布橋
 ◇丸子川~調布橋から亀甲山
 ◇六郷用水~女堀と南北引分

六郷用水(次太夫堀)~総合解説

六郷用水(次大夫堀)とは

家康が作った農業かんがい用水

六郷用水は多摩川を水源とし、多摩川左岸の多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)から、世田谷領を通り六郷領(現在の大田区)に至る、延長23kmの灌漑用水路です。
徳川家康の命により、用水奉行・小泉次大夫(こいずみじだゆう)が、対岸の二ヶ領用水の建設と同時に1597年(慶長2年)に工事着手しました。以来、難工事の末に14年の歳月をかけて、1611年(慶長16年)に二ヶ領用水と併せて完成しました。

六郷用水の建設着手は、天下分け目の関が原の合戦(1600年)よりも3年も前のことでした。まだ家康の天下統一がなされる前のことです。

『米』が給料であり、税金であり、国力であった時代にあって、新田開発と米の増産は家康の権力基盤を支える最重要課題のひとつだったのです。工事を任された次大夫への期待と、責任の重さが、400年を経過した今に伝わってきます。

六郷用水(次大夫堀)の流路図

流路図(その1):
狛江の取水口~仙川「水神橋」~二子玉川「調布橋」

六郷用水(次大夫堀)の流路図(その1):狛江の取水口~仙川「水神橋」~二子玉川「調布橋」/多摩川の用水:六郷用水(次太夫堀)~魅力いっぱい 多摩川散策情報


流路図(その2):
二子玉川「調布橋」~亀甲山~南北引分(分水)~六郷用水北堀・南堀

六郷用水(次大夫堀)の流路図(その2):二子玉川「調布橋」~亀甲山~南北引分(分水)~六郷用水北堀・南堀/多摩川の用水:六郷用水(次太夫堀)~魅力いっぱい 多摩川散策情報


※上図はいずれも、野川脇に建てられた説明看板「東京 狛江 タウンガイド」に一部加筆。

最初は六郷領だけの用水=「六郷領用水」

徳川直轄領の灌漑が目的でした

六郷用水は、当初は家康の直轄領(天領)であった六郷領に用水を供給する目的で作られました。彦根藩の大名領地だった世田谷領は、用水は通過するだけで使用することはできませんでした。
その証拠に、六郷用水は和泉村の取水口から亀甲山までは一本の導水路で引かれており、六郷領に入ってからようやく分水路を設けて、六郷領全域に細かく用水路が張り巡らされるようになっています。

そのため六郷用水は、正式には「六郷領用水」(通称:六郷用水)と呼ばれ、用水が通過するだけの世田谷領内ではもっぱら「次大夫堀」と呼んでいました。

世田谷領の人たちはよっぽど悔しかったのでしょう。用水が目の前を流れているのに利用できない。他所の領地の用水を、あえて「六郷領用水(=六郷領のための用水)」とは呼びたくない・・・そんな事だったのかも知れません。当時は「世田谷領用水」は無かったのです。

百年後にやっと世田谷領でも利用可能に

六郷領用水が完成してから百年以上経った享保年間(1725~29)に、多摩川の治水工事と併せて二ヶ領用水と六郷領用水の大改修が行われました。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の時代です。工事の指揮をとったのは、後に川崎領の代官となる田中丘隅(たなかきゅうぐ。休愚)でした。

この享保の大改修以降、世田谷領内でも六郷領用水の利用が一部認められるようになり、ようやく多摩川左岸の江戸二ヶ領(世田谷領と六郷領)の水田が、六郷用水で灌漑されることになりました

六郷用水は、多摩川右岸の二ヶ領用水(稲毛領と川崎領)と併せて「四ヶ領用水」と呼ばれることもありますが、このように呼ばれるようになったのも、用水が当初作られてから百年以上も経ってからのことでした。ひとつの用水にも、いろいろな思惑と歴史があることが改めて理解されます。

六郷用水(次大夫堀)の現状

丸子川として一部が保存されています

その六郷用水も、都市化の影響で大部分が埋め立てられたり暗渠化されて、見ることができなくなってしまいました。今では、当時「次大夫堀」と呼ばれていた一部区間(仙川水神橋~亀甲山)が「丸子川」と名を変えて残っているだけです。

それ以外の区間では、次大夫堀の流路の一部が世田谷区西部で緑道や公園として残されているほか、大田区では中原街道の東に、湧水を利用して六郷用水が再現されています。

現在の六郷用水

用水路の状況により3つの区間に大別されます。

①最上流部の次大夫堀跡(狛江の取水口~仙川水神橋)
狛江市元和泉の多摩川取水口から仙川水神橋に至る区間です。今ではすっかり埋め立てられて往時の姿を見ることはできませんが、流路の一部であった区間が、「滝下橋緑道」と「次大夫堀公園」に残されています。詳しくは次のページをご覧ください。
 ⇒六郷用水(次大夫堀)上流域

②丸子川と名前を変えて流路をとどめている区間(仙川水神橋~亀甲山)
世田谷区岡本の仙川水神橋から、大田区田園調布の亀甲山までの区間です。この区間は現在の地図では「丸子川」と表示されていますが、今に残る次大夫堀の流路です。亀甲山のふもとに浅間神社があり、この付近の水門から多摩川に放流されています。
 ⇒丸子川~仙川から調布橋まで
 ⇒丸子川~調布橋から亀甲山まで

③大田区内の再現水路と六郷用水跡
大田区内では、中原街道から下流側に、東急多摩川線の多摩川駅~鵜の木駅付近にかけて湧水を利用した六郷用水の再現水路が作られています。また、これより下流の用水跡地にも、いたるところに案内板が建てられており、かつての六郷用水の面影が偲ばれます。
 ⇒六郷用水の再現水路

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